君は僕だ
クソクソどうでもいい話なんだけど僕が友人にばぶラブのセールスを先日した際に自分の中で最後だと(卒コンのぞいて)思って参加してるライブのソロで君は僕だを選ぶのは激エモって言う話をしたんですけども。当時の僕としてはもうザワザワが止まんないくらいはわわ…ってなりすぎてとてもじゃないけど言葉に出来なかったので「でぃあじぇじゃなくて右エビやってよ」に焦点絞ってたけどほんとにあの選曲ははわわ。。でしかなくないですか。はわわ。
難波のコンサートというかメンバーはほんとに自分たちが今までやったやつしか選ばないから勉強不足というかマンネリというかそこがつまんねーとこなんですけど、あ、いや別に今はそんな文句言うために書いてるんじゃないんですけど。ばぶがコレ選ぶこと自体あらら珍しいって感じ。でも敦子のファンだし代表曲ぐらい抑えてても不思議ではないかぁ、っていう大前提は置いといてだね。
なにが激エモかって、なんで君は僕だなのかってとこで。
そもそもスクールカースト最上位を永遠に突っ走るパリピ?ウェイ?的なポジションな生涯モテ期が止まんねーばぶだけど僕的にはネクラ野郎にしか思えないワケで。ヘタするとオタクと紙一重だよなぁと思ってるんだ。つまり、康にシンパシー感じやすいとこおおいにあるんじゃないか的な。とこが。あるでしょ、あるじゃん。
敦子が好きっていうのもそれの一環でさ。
基本的に人は他人に自分を見出すじゃん、「好き」は「知識」であって「理解」じゃん、他人を知って、理解して、好きになるの行程。これ、「理解」をどう理解するかで得る「知識」が人によって異なってくるし、それゆえに好きか嫌いかにわかれるわけだけど(どうでもいいは今回省く)。理解できたら「好き」で理解できないのが「嫌い」っていうのがすごーーく単純で純粋な思考回路。んで、「理解できる」っていうのは自分が「知っている」ってことで。すでに自分も持ってる、知ってる、から、理解できるってロジック。だからその「理解」からくる「好き」の感情は相手の中に自分を映し出して共感することで生まれているってとこまでとりあえずオーケーでしょうか。まぁとにかくばぶが敦子の中に自分を見つけ出してるからばぶは敦子のこと好きなんじゃないかってハナシ。
そこで君は僕だに戻るんだけど、康最大の敦子へのラブソング。さっきまで言ってたロジックを詞にするとこうなる。康は敦子にこういう自分を投影したんだなぁと思っちゃうわけで、仮にそうだと仮定すると。コレを選んだばぶも康と同じことを感じてたのかなぁとか思うわけ。だから康とばぶはシンパシー性は高めだなあとか思うわけよ、ばぶさん365も染み入ってるしな。というか康のネクラインドア文系なわりにガンガン行こうぜ弱音は吐くなでも風流も大事にしようなみたいなところはまるっきりばぶなのでは。みたいな。単純に私がばぶ推しで二推しが康だから似たような部分ばかり見て好きになっているという意見は尊重します。そうだね。
話は少し逸れたけどつまりばぶは康と同じように敦子のことが好きで、敦子のことが好きなのと同じように君は僕だが好きなのでは、ということですね。
ここで次に君は僕だ自体の話になりますが、自己投影の愛はほぼほぼ自己愛に等しく裏を返せば「君にああしてあげたい」は「僕にこうしてくれれば」という願望を叶えられないかわりの愛情とイコール的なところがありますね。エゴい。嫌いじゃないし純粋な形だと僕は思いますが。
んでばぶがコレを選んだことに関して、まさか今さら敦子に捧げて歌うわけじゃあるまいし、最後の自由にしていいソロなんだから、もちろん敦子のことは一旦置いといての選曲になってるはずですわな。
>本当は悩んでても
>不器用で損しても
>笑顔のまま
>変わらない君が好きだ
>君は君だ
>好きなように生きろ
>まわりなんて気にしちゃ
>つまらないよ
これは彼女が人から言って欲しかった言葉なのかなぁと思うとなんともザワザワ止まんないでしょ?当時のワシの気持ちわかります??ファンに「辞めたら?」って言われる朱里に「ええやん 朱里のことをちゃんと考えてくれてるってことやで」って返した女が選んだ曲がコレなんですわ。激エモやろが。愛しさで包み込んでぶん投げたいわ。
ここまでがばぶ激エモ〜〜〜!キエ〜〜〜〜!みたいな話で私が友人に説明した部分なんですけど、ここからは、さっき他ごとを考えてた時にふと、ほんとにふと降りてきちゃった話。
この君にああしてあげたい≒僕にこうしてくれれば の図式は、やり方間違えるとスゲー押し付けがましい迷惑野郎になる。つまり僕だったらこうして欲しいから君にこうしてあげるよ!嬉しいでしょ?であって、場合によっては僕がしてあげたから君もしてよ!に。め、迷惑。
迷惑ではない、ほんとに理解してるパターンだと、ほんとに良い関係になれるのですが。
さて君は僕だにおける”相手に見出した自分”は、”「不器用」であること”と”「自由」にしていてほしいこと”であるのでほんとに理解してるなら迷惑野郎にはなかなかなりにくい案件でもある(ようするに不器用さを受け入れ、口を出さずにほっとけばよい)。そんな自己投影の愛を君は僕だに見出したばぶは、実際問題、相手への「自由」に関するラブが多い気がするのだ。敦子に限った話でなく、小嶋さんなんてすごくわかりやすくて。しゅきしゅきしててもいつもあーうんうんな小嶋さん。リクアワでは気軽に親友になってそれもう握手会のファンと同じだからね?!と指峯に言われる次第でありましたが、ばぶは「それでいい」「それが小嶋さん」「そのままでいていい」「わたしはわかってますから」の言い様。まさしく、
>君は君だ
>自由でいてほしい
状態だ。そのうえ献身的。(小嶋さんへの)片想いが原因なのか、原曲のように『君は自由に生きろ、僕も自由にする、それでも理解し合えてるよね。』まで行けてない。『自由に生きて、私は理解してるから、私はその自由さを受け入れるから、それだけでいいよ。』である。前述した押し付け迷惑野郎どころか、相手方の需要しか満たしてない。それでいいのかお前、受け入れるだけか、与えるだけか。自分のことは受け入れてもらわんでいいんか。
先のエモ話では一応”君”を"ばぶ"とし、"僕"を不特定多数に設定している。周囲なのかファンなのか、誰でもいいから、誰かに、そう言ってほしい、理解してほしい、というニュアンスかな〜〜。みたいな。(ファンサービス過多なお人だから今からする(卒業)こと許してね的な意味説も譲れない)
でもわりとばぶって受け身というか自分がラブかどうかが大事みたいなとこ強いので、して貰いたいもあるだろうけど自分がそう思えるかありきみたいなとこあるやん。相手に愛されなくても自分が愛していれば満足ダゾ♡みたいな。ん、じゃ、え…
>君は君だ
>好きなように生きろ
>僕は僕だ
>勝手にさせてくれ
と対等にツンケンする相手とは…ん?
>気が合うなんて
>奇跡みたいな2人さ
ん?あれ?豆乳かな?という結論に至って滾ったよ。っていう報告。
これが言いたくて長々と書いた。
萌えるだけで、普通に意思表明の意図で選んでる方だと思うよ。ロジックが噛み合って萌えただけなの、許せ。チャオ。